将棋の藤井五冠の活躍ぶりは今もメディアで報道されつづけています。テレビでもラジオでも新聞でも、勝敗の行方はもちろん、対局時の食事やおやつにまで注目が集まります。将棋や野球など、多くの人が注目するビッグイベントが開催されてメディアがそれをとりあげれば、メディアの視聴率や購読数に影響を与えることはたやすく想像できます。
メディアに媒介されるイベントを「メディア・イベント」と呼びます。これは1990年代に提起された概念で、イベントそのものをメディアが主催するケースもあれば、何らかの出来事がメディアに大々的に報道されてイベントとなるケースもあります。ただ、メディア・イベントは決して最近に始まったことではありません。その歴史は戦前までさかのぼります。今回は戦前・新聞社まわりの出来事を中心に過去に分け入ってみましょう。
テレビとメディア・イベント~メディアの拡販のために
メディア・イベントというと、今日我々がすぐに思い浮かべるメディアはテレビでしょう。日本でテレビ放送が始まったのは1953年。NHKと日本テレビ放送網によってテレビ本放送が開始されました。当時、テレビ受像機の所有は900世帯ほどでしたが、当時の日本テレビ・正力松太郎社長は、テレビの媒体価値を発揮させるため、街頭テレビを繁華街に設置。視聴者自体は多いことをアピールしてスポンサーを付け、開局後7か月目に黒字化を達成しました。その街頭テレビで最も人気を呼んだのはプロレス中継でした。1954年2月19日、蔵前国技館で開催された力道山・木村政彦VSシャープ兄弟の一戦は、日本プロレス史上初の国際試合であり、NHKと日本テレビによって中継されました。日本でテレビの需要と視聴者の急増につながったメディア・イベントとされています。
その後、野球、ゴルフ、サッカー、カーレース、そしてオリンピックやワールドカップまで、テレビというメディアはメディア・イベントなくしてその躍進は語れない、と言えるでしょう。
Tips テレビ大躍進のきっかけはプロレス中継
戦前の新聞拡販~将棋棋戦主催を巡るめまぐるしい競争
テレビよりもはるかに長い歴史を持つマスメディア・新聞は、実はメディア・イベントとの関わりの歴史も古いのです。
明治時代。すでに新聞には詰将棋などの将棋記事が人気を呼んでいました。新聞に対戦の状況を掲載する「新聞棋戦」は1908年の「萬朝報」が始まり、と言われています。これをきっかけに各新聞社が相次いで棋戦を掲載するようになりました。1935年、それまで世襲制だった「名人」のタイトルを実力制にするという、将棋界の大改革が実現。誰が初めての実力名人になるか国中から注目されましたが、この対戦を主催したのは東京日日新聞(のちの毎日新聞)でした。2年後の1937年、今度は読売新聞紙上で東西棋士による大勝負が連載されます。その時の棋士の心情が村田英雄のヒット曲「王将」のモチーフとも言われ、後に「南禅寺の決戦」と呼ばれたその棋戦は、読売新聞の記者が10年越しで仕掛けてきたものだったと言われています。
名人戦の報道権については戦後もし烈な争いが継続します。まず第9期(1950年)、毎日新聞と日本将棋連盟の交渉が決裂、朝日新聞社に移ります。1976年に日本将棋連盟の契約金増額要求を朝日が拒否したために毎日が再び主催することとなります。さらに2006年3月には日本将棋連盟が主催を朝日に移管するとの決定を下し、毎日に契約不更新の通知書を送付する騒ぎになりました。両社が協議の結果、朝日・毎日が共催する形となり、現在に至っています。将棋ファンは、新聞紙面の棋譜を楽しみにしており、伝統の名人戦はとりわけ人気があるため、主催が変わるときには将棋ファンも購読新聞を変えるといわれるほどで、購読者数を維持したい新聞社にとっては今でも大きな問題なのです。
Tips 将棋の記事は当時の人気。名人戦の主催新聞社は現代まで何度も交代している
野球と新聞社の関わり
日本でメディアとの関係が最も強いスポーツは言うまでもなく野球でしょう。今日のプロ野球人気が定着したのは巨人戦の全国放送によると言われていますが、その潮流を作ったのは戦前の新聞社でした。すでに明治時代から多くの新聞社が覇を競っていました。先述の「萬朝報」が新聞棋戦を掲載し始めた前年、1907年の各紙の発行部数をみると、「報知新聞」30万部、「大阪朝日新聞」30万部、「大阪毎日新聞」27万部、「萬朝報」25万部、「東京朝日新聞」20万部などで、各社とも部数拡大を目指して激しい競争状態にありました。各社とも部数拡大を目指て激しい競争状態にあり、各社揃って当時人気上昇中の野球を利用しようとしました。東京朝日新聞が掲載した「反野球キャンペーン」ともいえる記事の連載は、当時の野球人気を逆手にとった朝日新聞社の部数拡大戦略だったともいわれていますが、実際東京朝日新聞、大阪朝日新聞の部数はこの時期大きく伸びることとなりました。
大正に入って1915年には、第1回全国中等学校優勝野球大会、現在の「(夏の)全国高校野球選手権大会」が始まりましたが、この主催は大阪朝日新聞。かと思うと9年後の1924年に始まった春季の選抜中等学校野球大会、いわゆる春のセンバツは毎日新聞が主催でした。
また、読売新聞が部数を伸ばすきっかけとなったのが、日米野球です。読売は大衆娯楽の取り込みに注力していましたが、特に米国の大リーグに着目しました。米大リーグのチームを招いての日米野球は1908年以来たびたび行われていましたが、1931年、当時の読売新聞社・正力松太郎社長が、MLB選抜メンバーを招いて初の日本オールスターチームとの試合を実現しました。試合は日本の17戦全敗でしたが、興行的には大成功で、1931年に22万部だった読売新聞の部数は、1939年には4倍以上の120万部に達し、東京の新聞界で最大の部数を達成し、以降の発展の基盤を築くこととなりました。
Tips 野球と新聞は、お互いの発展に大きく関わってきた
まとめ
広告収入のウエイトが他のメディアに比べて低い新聞社にとって、販売部数の多寡はそのまま新聞社の経営に直結している、といえます。花形メディアだった戦前の新聞社といえども、部数の確保は死活問題でした。その後、ラジオ、テレビ、そしてインターネットと、現代まで続くメディアとイベントとの関係には、そんな歴史的背景があったのです。将棋、野球、プロレス…それぞれの時代の新聞社にとってキラーコンテンツだったこれらのメディア・イベントが、今も根強いファンを持っているのも、新聞をはじめメディアとの長い関係があってこそ、なのかもしれませんね。